合戦まつり概要
大正14年(1586年)、鶴賀城の麓、戸次川原で、長宗我部・十河・仙石三大名の連合軍に大友軍を加えた六千余と島津軍二万五千が激突するのです。大友方は多勢に無勢の上、軍監仙秀久の無謀な戦術に巻き込まれ、全滅に近い憂き目にあうこととなったのです。累々横たわる数千の戦死者を葬るために、地元民により数か所の千人塚も築かれます。流した血によって大野川を赤く染めた日々が続いたと言い伝えられています。
当地には戦死した長宗我部信親や十河存保らの墓が残っており、今まで地元で供養が続けられてきました。この歴史的な出来事を後世に伝えるとともに、祭りを地域復興の目玉として「青少年に夢を、ふるさと大南に輝きを!」をキャッチフレーズに大分市の主要観光事業として取り組まれています。
今年の祭りは、「武者修行」を行い、合戦の舞台となった戸次川原では数々の「郷土芸能」や合戦さながらの「大野川合戦絵巻」を繰り広げます。さらに歴史の波に翻弄され、戦場で敢え無く散ったつわものたちの霊を慰めるよう花火が打ち上げられ夜空を焦がします。また、地元の特産品や地域の味を楽しんでいただく「大南市場」も開かれます。翌日天面山においては「神楽大会」「餅つき大会」等が行われます。
大野川合戦まつりにかける想い
大分の子供から年配者が誇れるまつりの実現と、戸次川の戦いにおいて戦死された2700余人の鎮魂を目的としております。
大分のお祭りには「萬弘寺の市」「本場鶴崎踊大会」「賀来の市」「ななせの火群まつり」などがあります。どのお祭りも市民主導の素晴らしいお祭りです。「大野川合戦まつり」は史実に基づいたものですが、島津軍に大友と四国連合軍が惨敗したので地元ではほとんど忘れ去られた事をおまつりとしています。
長宗我部元親の長男信親は織田信長より刀を頂いたと言う強者、享年22歳、武将十河存保 享年33歳は鬼十河と呼ばれた男。共に戸次川の戦いで戦死。他にも島津軍でも若くして戦死された方、家族がいて、愛する人がいて戦死されています。
この方々をはじめ2700余人の方々の鎮魂を祈る事は、今を生きる私達が祖先や家族、そして地域に感謝する事と同じと思います。人として感謝の気持ちを忘れない為に。
大野川合戦まつりは、もちろん市民主導のおまつりです。大南地区の自治会が各世帯から募金を頂き、商工会議所大南より広告を集め、県内の方々に声をかけチャリティーゴルフコンペを年2回開催し、大南地区をはじめ多くの市民の方々にボランディア参加して頂き、お店を出してもらってます。したがって関わってくれている人数が本当に多いのです。
まつりの内容も、武者行列、着陣式、出陣式、騎馬疾走、鉄砲隊演武など、そして合戦絵巻では暗闇から疾走する騎馬隊、当時南蛮からの最新国崩砲が火を吹き、大筒火縄銃が炸裂し、幾重もの炎の火花が飛びかかる。本物の役者があたかも当時をそのままに魅せて、最後は曲に合わせ花火が幾多の想いを空に描く。
市民主導で行政があと押しをしてくれてはいるものの、数えきれないボランディアによって成り立っているこのまつりです。まだ凄いことは「戸次川の合戦 歴史交流の証(起請文)」花押印による調印を大分市・南国市・高松市・高知市・日置市が行った事です。まつりが行政を動かしたのです。なんと素敵なまつりと思いませんか?
これだけ凄いおまつりをもっとスケールの大きなものにしたいと私達は考えています。そして大分市の誰しもが自分の家の歴史や地域の歴史を知り、感謝の心や愛を広げてゆきたいのです。
関連武将
大友宗麟(おおともそうりん)
1530-1587
大友氏 21代 当主、南蛮貿易を盛んにして、豊後の府内を国際交易の拠点とした。戦国大名として豊後を中心として 九州6国を支配する。
54年肥後の菊池氏を滅ぼす。61年毛利氏と門司城合戦,69年肥前で龍造寺氏と戦い,博多にて毛利氏と再び戦う。78年薩摩の島津氏との日向の高城,耳川の合戦で敗れて衰退する。86年秀吉に島津侵入の救援を大阪城で依頼して、九州征伐のきっかけを作る。
キリシタン大名としてローマに82年4月に伊東マンションら少年使節を送る。幼名、塩法師丸、後に新太郎、義鎮,入道して宗麟、休庵など名のり48歳で洗礼を受けドン.フランシスコに。官位.左衛門督(御所の左の門の警備長官).正4位下.後に大正天皇より従3位下を追贈さる。
長宗我部元親 (ちょうそかべ もとちか)
1539~1599
国親の子。初名弥三郎、宮内少輔、土佐守。軍政両面に優れた土佐の名将で、分国法「長宗我部元親百箇条」を制定したことで知られる。天正十三年春に念願の四国統一を成し遂げるが、直後に四国へ侵攻してきた秀吉の大軍の前には衆寡敵せず、同年八月に降伏。後は忠実な秀吉傘下の大名となり羽柴姓を許され、また従四位下に叙せられ土佐侍従と呼ばれた。
秀吉の九州征伐の際に戸次川合戦で長男信親を亡くしてからは精彩を欠くが、小田原攻めや文禄役にも参陣した。慶長四年五月十九日、京都伏見にて没。享年六十一歳。
十河存保(そごう まさやす)
1554 – 1587
義賢の弟・十河一存の養子となり、1561年、一存の死によって家督を相続する。三好氏が織田信長と敵対したとき、存保は信長と争ったが、四国平定を目指す長宗我部元親の勢力が伸びてくるとそれに対抗するため、信長と手を結んだ。
1582年、信長が四国征伐を計画すると存保はその先鋒として讃岐や阿波で暴れまくったが、同年六月に本能寺の変が起きて信長が死亡すると存保は後ろ盾を失って勢力が大きく後退し、その後、阿波に攻め込んできた長宗我部軍と中富川の戦いで激突して敗北、大坂に逃亡した。
1585年、豊臣秀吉の四国征伐に協力したため旧領を秀吉より与えられて大名として復帰したが翌年、秀吉の九州征伐に従った際、軍監の仙石秀久の無謀な作戦に巻き込まれて戸次川の戦いにおいて戦死した。
島津義久(しまづ よしひさ)
1533~1611
島津氏は惟宗姓・源姓・藤原姓の三説がある。源頼朝の落胤説は、すでに江戸時代においても疑問視され、現在では単なる伝説とされている。信頼できるのは惟宗姓といえるようだ。初代の忠久は頼朝から薩摩と大隅の守護職に補任され、のちには日向の守護職も得て、島津氏は南九州一の大族として歴史に名をあらわした。
三代久経、四代忠宗のころから盛んに庶子が分立し、室町時代にはそれら庶氏家が独立して大名化する動きもあり、宗家としての島津氏の威令が及ばないということもあった。そして、勝久の代に忠良を迎え国事を託し。忠良の活躍によって、忠良の子貴久が宗家を継ぐことになった。この貴久が戦国島津氏の基礎を築くことになった。貴久のあとを継いだ嫡男の義久は、義弘・歳久・家久の三人の才能に溢れた弟たちの協力を得て、島津氏を九州最大の戦国大名に押し上げたのであった。
島津氏中興の祖、日新斎忠良が孫の四人を評した言葉がある。「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」というもので、兄弟それぞれの個性と能力を見事に予言した、といえよう。
鶴賀城の由来
鶴賀城は別名「利光城」とも言われ、険しい連山の頂きに築かれた山城である。以前は、豊後の豪族、緒方一族が治めていた。建久7年(1196)大友初代、熊直公が豊前・豊後の守護職として府内に入り、地元の旧族を一掃した。熊直の孫大友親家に「利光」と名のらせ、以来390年間代々府内南の要衝として始めた。
天正14年(1586)大友、島津の確執はやがて「豊薩の陣」へと進んだ。11月には家久率いる薩摩軍2万の精鋭が伊集院美作を先陣に、二陣、三陣と攻め寄せた。援軍の大友 、四国連合軍は、「戸次川の合戦」で大敗を喫する。
斜陽の大友家に節義を貫く城将、利光越前守宗魚の率いる三千余の豊後勢は、善戦数10日におよぶが、軍勢の差は大きく、水食料を絶たれ、矢弾つきはて、悲運な最期を遂げる。
翌15年、豊臣秀吉軍が九州平定に出陣し、薩将島津家久を収め、豊薩の天王山ともいわれる鶴賀城攻防戦は終わった。この山ろくに末院六ヶ寺を持つ成大寺があった。今は廃寺になっているが、境内に城将の霊を祭った次の基碑がある。
長空院殿前越州刺史水運宗魚大居士
天象天正14年丙戌歳12月7日
平成19年3月吉日
大分市地域まちづくり活性化事業
協力 鶴賀城保存会
天面山城の由来(別名 天連山)
大分市の西南、大字端登と河原内の境に在る。天面山城跡は別名天連山とも云い建久の頃、豊後 の豪族大神一族の阿南氏が居を構えていた。
建久7年(1196)初代 大友能直が関東より下向以来 四百年間大友家の支配するところとなった。
天正14年(1586年)九州の二台勢力であった大友及び島津は戦いとなり島津家久の率いる軍勢は国境に在る大友家の朝日嶽城(宇目町)に迫った。この城を守る大友家の部将柴田遠江守紹安は人の道武士道に反し勢いの弱った主家大友を裏切り代々の家臣帆足市弥太の棟言を無視して叛旗を翻し島津方についた。島津家久は大友家を裏切った柴田紹安を信用せず腹心の部将と共に紹安を天面城に置き紹安の妻子は星川城に人質として分離して置きその後津賀牟礼城(野津町入田)を攻め落として大友勢を守る戸次鶴賀城に迫った。
一方、宗麟の命を受けた大友家の部将佐伯太郎惟定は星川城を攻め此れを陥れた。紹安はこの火煙を遥か天面山城より眺め妻子の身を案ずると共に初めて帆足市弥太の諌言を思い起こし前非を悔い宗麟公の為に 戦おうと決心したが時すでに遅くそれに気付いた島津方の大軍に取り囲まれた。今や四面楚歌となった紹安は裏切りの汚名をそそぐのは此の一線と一族郎党をもって天面山城を討って出て戦ったが奮戦空しく島津の大軍の前に遂に悲憤の涙を呑み天面山城と共に主家大友に殉じた。
尚柴田紹安戦死の地は現在の大分市大字端登字山下と伝えられている。
関連用語
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願行寺
願行寺は1586年豊薩の陣で、お寺や記録は消失したが1593年に梅巌和尚が再興した。梅巌和尚は戸次川の合戦で戦死した長宗我部信親の引導をわたした。この寺は、信親と利光宗魚の位牌があり、今もえい永代供養を行っている。
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専想寺五世唯明の墓
専想寺は現在も森町にあり、五世唯明は戸次川の合戦で、国の一大事と、僧衣の上によろいを着て戦場に駆けつけるが1586年12月12日、39歳で討ち死にする。専想寺には、今もこの戦いの手柄について感謝状が残っている。
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長宗我部信親の鎧塚
長宗我部信親の鎧が埋めてあったと伝えられている。
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十河一族の慰霊碑
四国連合軍、長宗我部と共に戦った十河存保をはじめ十河一族の慰霊碑
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長宗我部信親の墓
嶺の山崎の台に葬られた信親の墓、信親は、180cmを越す大男で、約千名の部下を率いて勇敢に戦ったが戸次川の戦いで戦死した。
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鶴賀城址
鶴賀城は、別名利光城とも言われ険しい山の頂きに築かれた山城である。大友氏の初代大友能直の孫、親家に「利光」と名乗らせ代々この地を治める。1586年11月島津軍が鶴賀城を攻め、利光宗魚の率いる3千余は鶴賀城に立てこもり、善戦数十日、宗魚は、弓矢で悲運な最後を遂げる。城兵は大将(宗魚)の死をかくし主君大友のため、最後まで降伏せず戦った。
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成大寺
寺の始まりはわからないが天台宗の寺で1196年大友能直が府内に入り、九州を守る寺として栄える。1236年には利光氏の祈願寺となり、末院6寺を持つ大寺院であった。1586年鶴賀城の戦いで消失する。
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鶴賀城主利光宗魚の墓
鶴賀城主利光宗魚は鶴賀城に立てこもり島津軍の猛攻に耐え、落城をまぬがれたが、不運にも、物陰にひそんでいた一人の島津兵に弓矢で射られて絶命した。宗魚の墓は、成大寺にあり、位牌は願行寺と成大寺にある。
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長宗我部信親の終焉の処
脇津留川のあたりで、長宗我部信親(22歳)は島津軍に囲まれ惨烈の戦いの末、戦死したと伝えられ、この終焉の地に数年前、長宗我部の子孫と利光地区が協力して碑を建立した。
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戸次川の古戦場跡
戸次川の古戦場跡は、天正14年(1586年)12月12日大友軍・四国連合軍(約6千人)と島津軍(約2万人)の壮絶な戦いがあった。大友・四国連合軍は大敗し、大友氏の滅亡につながった。
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鏡城址
鏡城で四国連合軍(仙石秀久、十河存保、長宗我部元親、長宗我部信親)の各陣営の大将が戸次川の戦いの軍儀を開いた。
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秋月神社古井戸
筑前秋月藩(福岡県)の武士が戦いに敗れ古井戸に飛び込み自害した。百姓に追っ手に知らせないことを約束にこの空井戸からこんこんと美味しい水が湧き出るようになった。と伝えられている。